1年前初めて即った女の子についての幾分長めな回想
小さなあくびをする彼女。
「眠いんなら、別に寝ても良いんだよ?」
僕は何気なしにそう言葉を投げかけた。
情事の後、あの一番安らかな気持ちに包まれた心もちで意味もなく言ってみただけの言葉で。
円山町のひと部屋。
閉じられた窓からは光が届かない。
照明だけが昼夜問わず一定の明かりを灯すセピアの空間で、僕の時計を所在無げに両手でいじり続ける彼女。
「うんう。勿体無いもん」
ふと顔を上げてそう答えた。
?
??
なぜだか、出会ってからまだ2時間ほどなのに、彼女の言葉は激しい力を持って僕の心に響いた。
今振り返ってみれば、それは誰がなんと言おうと、とても純度が高い言葉だったのだと思う。
端から見れば、ただのぎこちないハイエナが一匹。
そんなハイエナについてきた、そもそも狼とハイエナの区別さえうまくつかなかった一人の無防備な赤ずきん。
ところがそんな赤ずきんの言葉を無防備すぎるほどに全身で浴びた一匹のハイエナは、思わず口をわずかに開けたまま、ぼーっと彼女の瞳を見つめてしまった。
静かに膨らむ感情の渦を上手く捉えられぬまま、衝動的にもう一度強く彼女を抱いた。
去年のちょうど今頃、僕はいわゆるストリートナンパというものを始めた。
ここではその経緯については僭越ながら省略させて頂くが、それまでさまざまな男と女の出会いの現場を右往左往し、それなりの手応えはありつつけれどもゆっくりと弾き出されるようにして路上に辿り着いたというのが当時の僕の心もちだった。
行き詰まった成熟社会、時代の病理に翻弄された男がまたここに一人。
うだつの上がらない、世に吐いて捨てるほどいるジョブホッパーのような。
そんな駆け出しの病人が初めて「即」をしたのが、彼女だった。
大型連休半ば、暦上は平日。
一通りもまばらな昼下がりの井の頭通り。
「目力強いね〜(with 硬直した笑顔)」
今思えばむしろ一周回って新鮮ささえ感じる滑稽なお声がけ。
けれども見るからに暇を持て余しながらゆっくりと歩いていた彼女は、通り一遍の拒否反応を弱々と形式的にこなしつつも、比較的あっさりと僕の誘いに応じた。
「渋谷で一番おいしいって言われてるコーヒーショップがあってさ!!…知ってるかな?プロントっていうんだけど!」
プロント…。
初めてレイアップシュートにトライした運動音痴の小学生みたいな動きで、彼女を座席まで連れて行った。
後はもう、自分でも乗っている列車の速さに戸惑いながらも、無我夢中に状況に身を任せて終着点までを突き進んだ。
合コンで、出会い系で、今まで「ワンチャン」やろうとしてきた時のようなかんじで。
たわいもない話をして、コイバナして、個室で髪良い匂いするよねって近づいてキスして。
今まで自分がやってきたことの焼き直しをしてみたら、すぐに訪れたザ・ビギナーズラック。
こうしてナンパを始めて3日目、ナンパ師キャサディによる初めての「即」いうものが達成された。
陽が落ちる道玄坂を下りて、最後はバーで一杯ずつビールを飲んで、駅に向かう階段を降ったところでさよならをした。
楽しかったよ!ほんとまた会おうな!笑
そうLINEを送った。
LINEは、ブロックされていた。
最後に立ち寄ったバーで、彼女が以前飼っていた猫について話していたことを覚えている。
もうだいぶ昔、まだ彼女が小さかった頃、当時飼っていた猫がある日突然散歩に出かけたまま帰ってこなくなった。
雄猫、ジョン君。
普段は散歩に行ってもちゃんと帰ってくるのに、その日のそれっきり戻ることはなく失踪。
どうして急にいなくなったんだろうと家族は哀しんだが、例に漏れずそのまま人間の生活は続きそして月日が流れた。
ところが近頃、彼女の家のすぐ近くでどこか見覚えのある野良猫がウロウロしている。
あれはもしかして、かつて飼っていたジョンなんじゃないかと家族で話している。
「だってね、今でももしジョンがまだ生きてたら、あの野良猫とちょうど同じくらいの歳のはずなの。もちろん歳はとってるけど顔も似てるし、ジョンなんじゃないかなって。でも名前を呼んでもこっちには来てくれないし、ジョンなのかなあ、違うのかなあってお母さんたちとで話してるの」
彼女は
所詮世の中的には量産系。
所詮ナンパ師的にはド即系。
暇を持て余して渋谷の街をうろついていたただの学生。
なんだか、それでも僕にとっては、不思議に彼女の言葉のひとつひとつが染みいるものに思えた。
ぽつりぽつりと紡ぎ出された生活の色のある話が、どこか浮遊感のある彼女の存在に形を与えて僕の五感をゆさぶり始めた。
消えゆく記憶を手繰り寄せると、そんな感覚が脳裏に浮かぶ。
いつのまにか、互いのビールグラスはほとんど空になっていた。
「あのさ…また俺に会う気ないっしょ?笑」
淡々と話を続けていた彼女の言葉が少し空いたタイミングで、自分でも気づかぬうちにふいにぽろっとでたそんな質問。
あくまで軽やかなトーンで聞いたけれども、正直な話僕の心の中は既にあまり穏やかではなかったと思う。
「うーん…(笑)」
彼女は静かに、ごく小さくはにかんでいた。
下手くそであることを特に気にかけてもいないような、そんな罪の意識すらない下手くそなごまかし笑い。
「確かにさ、俺らはナンパで出会ったし、そんな簡単に俺のこと信じてくれって言うのは難しいことだってのはよくわかる。
でも純粋にね、本当に俺は〇〇といてすごく楽しかったし、また会っていろんな話がしたいなって思うんだよ。
それとも〇〇は、あくまでこれは今日だけの出来事、みたいに考えるつもりなの?」
あくまで落ち着いて、なんて描写が説得力を一切持たない必死以外の何物でもない情けなさのオンパレード。
そんな自分とは裏腹に、むしろ裏腹になるべくして、彼女は特に何も答えず、ただただ静かにはにかんでいた。
そりゃあもう、きっとはじめから答えは決まっていたもんなあ。
「うんう。勿体無いもん」
あの日の記憶の表紙はやっぱりあの円山町のひと部屋で。
決して饒舌ではなかった彼女がふと口にした言葉は、静かな痛みを伴う日焼けしたフィルムの残像として、今でも時折頭の片隅にすーっと映し出される。
世の中で謳われている恋愛ものがたりが、分かり合おうとした二人、もしくは分かり合えなかった二人についてのものとに大別されるとすれば。
ただ1日だけ体を通り過ぎた二人が、分かり合おうとする必要などもなく、ただ極短期間で瞬間的に濃密な分かり合う体験をしてしまう。
そういう物語もその間にはあるということを、僕はその日図らずも体感することになった。
それは僕にとって、自分の中にどっぷりと根を下ろすある種の人生賛歌であり、また同時に日々の生活の価値判断を脅かしうる混乱の種でもあるなと未だに思う。
生のカタルシスは、一瞬の中にこそあるのでしょうか。
未熟な僕には、まだよくわかりません。
ただ確かに言えるのは、
あの日の記憶はまだしばらく僕のことを捉えて離すことはないだろうということです。
あれから、1年と少し。
ナンパは僕の生活の一部になりました。
「幸せ」は高波の如く訪れ、またふいにさざ波の如く引いて行きます。
とりあえずは、波に向かってみよう、乗れるものなら乗ろうとしてみよう、引き続きそういう心境ではあります。
海水を飲みつつ、できるだけゴーグルは外して、なんなら水着さえも脱いで、生まれたままの姿で身を委ねてみようと思っています。
沖に流されていくのか、どこかの島にたどり着くのか、はたまた浜辺に流し戻されるのか。
ぜんぜんわかりませんが、まだ海に執着がある限り、バタ足することだけは止めないようにとは思います。
あの日以来続くのは、本編か、それとも長い長いエンドロールなのか。
それは、もう暫くフィルムを回し続けてみないとわからないのです。